映画・テレビ

続・ムーンライト:ファンはありがたいね

監督のインタビューを見たら、ホウ・シャオシェンの影響をあげていました。「百年恋歌」の構成をヒントに、少年時代からの成長過程を三部に分け、それぞれにその後の人生を決定する象徴的な出来事を描くことにしたのだそうです。

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そして、やはりウォン・カーウァイへのオマージュという要素もあるとのこと。で、ひょっとして、YouTubeでそのことを取り上げた評論があるかも、と検索をかけたら、まっまっ!世の中には偉い人がいるのでありました。

似たシーンを並べて編集した動画を制作。いやー、どれだけ時間とエネルギーを費やしたのでありましょうか。労作ですよね。

単に映画ファンであるとかウォン・カーウァイが好きというだけでなく、どうやらこの方自身、映画作りのキャリアへ進みつつある・・のかな?

ちなみに、こういうのって著作権はどうなの?と首を傾げた人がいるかもしれないので、一言付け加えておきますと、こういう評論・批評行為での「引用」は許可されています。

ムーンライト

アカデミー賞関係で話題にもなったので、説明はしません。詳しくはこちらをどうぞ。

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ええ~、アメリカ映画なんでしょ~?なんてバカにしちゃだめですよ。ぜんぜんアメリカ映画らしくないから。うつむきがちで無口な主人公なのであります。アメリカ映画で「うつむく」主人公って、なんたるこっちゃ!

特に王家衛ウォン・カーウァイ)ファンは必見。あれ、このフレームの切り取り方、どこかで見たような・・というシーンが見つかりますよ。インテリアとか、背景の色調とか、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の好きな方にもオススメかな。

こんな静かな、いわゆる玄人受けする映画、アメリカで客が入るのかしらん?アート好きや映画ファンの間でカルト的人気を獲得するだけでは・・・と老婆心で心配したら、そんなことはないみたい。普通の人の間でもウケてるみたいよ。

ひょっとして、トランプ政権への反動で、アメリカ国民のセンチメント自体がシフトしたかな?

ヴィヴィアン・マイヤーを探して

横浜黄金町の映画館、ジャックアンドベティで「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」という長編ドキュメンタリー映画を鑑賞。

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コピー的に表現すれば、「偶然オークションで発見した膨大な点数の写真に感動した若者が、生涯1点の写真も発表しなかった埋もれた写真家の正体を探る」ということになるのでしょうが、正直言って、映画としての質は特に良くはない。住み込みの子守だった、この写真家のゆかりの人たちを探し、その人たちから話を聞く。それを撮影しただけです。

ただ、とにかくこのマイヤーという女性が魅力的であること。そして、ひょっとすると、それよりも面白いのは、写真を見つけ、私立探偵のようにアメリカ各地とフランスを飛び回ったジョン・マルーフという若者も、子守だった彼女と毎日生活を共にした人たちも、だれも彼女を理解しない。理解できない。ここのところです。

上に掲げたパンフレットの表紙の写真を見てもわかるように(たぶん窓ガラスに映った自分を撮影している)、常にこんなカメラを胸にぶら下げて、街を歩き回り、見知らぬ人に近づき、シャッターを押していたんですよ。脅威を感じ、反発した被写体がいたことは想像に難くない。相当、変でしょう、これ。彼女自身が目立ちまくりではないですか。

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ところが、知人たちは口々に「変人だった」と言うのですが、結局は、「どんな写真を撮っているのか見せてよ」と言った人はいなかった・・か、または、彼女にそう言えるほど親しくなった人はいなかった。「カメラをぶら下げた変な子守」でしかなかった。

こういうことって、決して珍しくないですよね。有名なのはゴッホかな?あんなに絵を描き続け、弟は画商だったのに、生前は周囲の人たちにとり、「変な絵を描く酔っぱらい」でしかなかった。

でも、彼女がゴッホと違うのは、たぶん「世間に認められない」ことを、彼女の方は、それほど重視していなかったのではないかと思えるからです。焦燥感や不幸であるという感覚はなかったと思いますよ。老後はかなり悲惨だったようですが、それは写真家として認められるかどうかとはあまり関係ないし(計画性がなかっただけだよね。それに、やや心の病に傾きかけた人だし)。

マイヤーには写真を撮る「喜び」があった。自分だけにしか理解できない感覚。シャッターを押す瞬間の集中。歓喜。自分にとってだけ重要なことを、自分の内心でだけ研究し、試行錯誤を繰り返し、「やった!」という瞬間に達する。彼女にとって大切だったのは、それだけだった。実際、ネガのままで現像すらしていない写真が大量に残っていることからも、彼女にとり、写真は「他人に見せる作品」というよりも、喜びを生む「アクション」だったことがうかがわれます。

かつての知人たちは、「かわいそうな人だった」みたいなことを言いますが、それはその人たちが芸術というもの、創造の喜びというものを理解しない俗物だからです。俗物にとっては、安楽に暮らせる程度の金を稼ぐか、金を稼ぐ男と結婚して、子どもや孫がいて、食べ物や、病気や、天気や、そんなヘドが出るほどつまらない話をする相手がいて。幸福というのはそれしかないわけで。それを持たない人はひっくるめて、「かわいそうな人」になる。

マイヤーは幸せだったと思うよ。だいたい、子守で貧乏だったみたいに見えますが、8カ月間も仕事を休んで、世界旅行をしているんだよ!世界各地で写真を撮りまくってる!

これを幸せと言わずに、なんと言うのか!

人生スイッチ

どうも「さよなら、人類」の衝撃があまりに過剰で、いまだに時々、場面が目の前にちらつき、突発的にグフグフと笑い出しそうになるので、全く違う楽しみ方ができる映画を観てみましょうか、というわけで。

アルモドバル製作、アルゼンチンのダミアン・ジフロン脚本・監督作品「人生スイッチ」を、川崎市アートセンター・アルテリオ映像館で鑑賞しました。スペイン語圏の映画を観ると、スペイン語の勉強にもなるし。

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原題は Relatos Salvajes。Relato は「お話」、Salvaje は「ワイルドな」(最後のsは複数形です。形容詞も複数形になる)、つまり野性的であったり、凶暴であったり、というイメージの言葉です。英語圏ではその通りに、Wild Tales というタイトルがついているみたい。

6話のオムニバス形式で、アルモドバル製作といっても、全然、作風が違うので、あの独特なヌメリのある悲哀とドラマを期待してはいけません。逆に、アルモドバル嫌いの方でもダイジョブ。

6話に共通するのは、人間が「ワイルド」になる瞬間、ずっとたまっていたモヤモヤが爆発して、心の底に眠っていた獣が牙をむく、その瞬間です。「人生スイッチ」という日本語タイトルのつけ方はうまい。座布団1枚!

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ジフロンの脚本がすごく良くできていて、演じる俳優たちもうまいので(アルゼンチン映画なんてめったに観ないのに、見覚えのある俳優が何人かいたから、アルゼンチンでは有名な役者さんを揃えたのではないかと)、ちょっとしたセリフや表情で、「あ、こいつ、危ないところが・・・」と、観客にわかるようにできています。(第1話だけは例外で、ご本人が登場しないので、他の人たちの話から推測できるんだけど)

そういう話なので、笑いと暴力(究極のバイオレンスみたいな話もある)が満載なんだけど、とにかく脚本がよくできていて、「ああ~わかるわ~」と主人公の行動が納得できてしまい、自分の中にも「ワイルド」が眠っていることがよくわかります。

スペイン語も少しだけ聞き取れて、うれしかった。特に、3話目で主人公が繰り返し叫ぶ罵りの言葉。

La puta que te parió!

これはしっかり確認済みのフレーズなので(こちらをご参照ください)、絶対、聞き間違えない。

さよなら、人類

久しぶりにジャック&ベティで観た映画をご紹介します。スウェーデンのロイ・アンダーソン監督作品「さよなら、人類」。

実は今年に入ってから、何度かジャック&ベティで映画鑑賞しているのですが、残念ながら、紹介したいような作品がなかったんだよなあ。

たとえば、ちょっと話題になった「おみおくりの作法」とか、いい話だし、手を抜かずに作っていることも、よくわかります。でも、テレビやインターネットで無数の映像を見ることができるこの時代に、わざわざ映画館まで足を運んで満足するには、何か新しいこと、奇妙なこと、すばらしいこと、等々を、あの暗い空間で、見知らぬ人たちと共有した。そういう「経験」感がないと、なかなか人に推薦はできないですよね。

その意味で、今回は堂々と宣言できる!

この映画を観ることは「経験」である。

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話の筋というのはべつにありません。チープな面白グッズを売り歩く二人組のセールスマンが、いちおう全体を貫く線になっているけれど、厳かさゼロの死とか、デブ女が教えるフラメンコダンスレッスンとか、笑っちゃうんだけど、なにやら居心地の悪さがあり、観客自身も身につまされてしまう、そういう場面が連続します。

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寒々とした色調。白いメイクを施された役者たち。どの場面にも窓やドアがあり、その向こうが見えている。そちらでも何かが進行している。

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1つ1つの場面が絵画のようでもあります。

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ああ!生きるというのはなんと恥ずかしいことか!

というのが全体のトーンね。愚かなことをしたり、残忍なことをしたり、恥多き人生を生きるわけですが、それでもなんとか生きてゆくわけでして。その先に、またしても恥多き死が待っているとしてもね。

ご参考までに。ルイス・ブニュエル監督が好きな人なら、なんの違和感もなく、入ってゆけます。

民主主義は面倒だけど面白い!

今日は新百合ヶ丘の川崎アートセンター・アルテリオ映像館で「みなさんのアムステルダム国立美術館へ」を鑑賞。

アムステルダム国立美術館といえば、泣く子も黙る、アレです。アレ。レンブラントの「夜警」!私、昔々に見てるんですよ。この美術館で。

イギリスに数日滞在した後、大陸を旅行していた友人と、どういう塩梅でそうなったのか、とにかく、ベルギーのアントワープ駅のホームで待ち合わせたのです。いや~、それにしても、どうしてそんなことになったのか、どうしても、思い出せん!列車の都合かな。

大しけの英仏海峡を渡り(英仏トンネル開通前だったもんで)、オランダのどこかの港(たぶんロッテルダム)に着いたのはいいんだけど、ちょうどいい列車がなくて、半日ぐらい空いちゃった。オランダに滞在する予定はなかったのですが、せっかくだから、とアムステルダムで美術館に行ったのでした。素晴らしかった。夜警。

とまあ、この映画を観て、そんなことも思い出したりして。さて、この映画。

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中央の絵の女の子が手にしているのは安全帽。所蔵作品をちょっとイジったわけね。

アムステルダム美術館の全面改修計画が始まったのは2003年。2008年には改修が完了する予定でした。しかし、それは甘かった。みたらし団子より、十勝おはぎより、甘かった!根回しがゼンゼンできてなかった!問題が噴出。爆発。結局、再オープンされたのは2013年のことでした・・ということは、美術館は10年の閉館を余儀なくされたのであった。

その10年間、このドキュメンタリー映画の監督以下、スタッフはそれに付き合うことになってしまったのですよ。やれやれ。でも、結局は面白い作品になったから、良かったけど。登場人物がパンフレットに図解されていました。

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クセモノぞろいなのですが、特に、赤で囲った内装担当のジジイとオネエサンは、もう、役者に演技させたって無理、と思えるほど、オカシイ。ジジイはミーティング中に居眠りするし、オネエサンはカメラに向かうと「(美術館の人たちには)コンセプトがぜんぜんないのよ!」なんて文句たらたらなくせに、ミーティングのときは「板挟みになりたくない」とかで、口をつぐんだまま。

さて、設計計画が公表されるやいなや、自転車通路が使いにくいとサイクリスト協会が噛み付き、反対運動を展開する。設計変更を迫られた2人のスペイン人建築家は、建築家としてのプライドがズタボロ。「だって、この通路部分のアイディアが画期的だという理由で、私らがコンペで選ばれたんじゃないか!」と、むくれる。館長は「通路の文句ばっかり・・。美術館に対する誇りはないのか」と神経衰弱寸前。結局、疲れきって、辞職してしまいます。

でも、そもそも1885年の開館のときに、旧市街と新市街をつなぐ道として、美術館の中を通路が横断するようにしていたわけで、自転車利用者の皆さんの反対には正当性があるのね。だから、市当局も、そちらを支持するしかない。

その他、施工の指示がおかしいとか、壁の色が気に入らないとか、ああだこうだ、ああだこうだ。新館長は、設計変更ということで収まっていた通路問題を、「嫌いなケーキを出されても、俺は食わない!」とか言っちゃって、白紙に戻そうとして、一悶着起こすし。

苦労して日本から金剛力士像を入手したアジア館の館長は、倉庫に入ったままの二体の仏像の前で、「こんなところに入れられて・・」と泣きそうになってるし。

でも、最後は完成して(そりゃー、いつかはね)、そうなれば、みんな、「おお!なんて素晴らしい!」になるわけ。それはなんといっても、芸術の力が大きいと思うよ。うわあと胸が一杯になるもの。正面に「夜警」が見えれば。

それにしても、どの方面の皆さんも、よく粘りました。偉い!皮肉ではなく、本当に感心してしまいます。自転車通路の例に象徴されるように、美術館は民のものなんだよ。だから、民主主義を貫くのが当然なのだ。ま、美術館関係者と政府・市当局関係者はヒクヒクとチックが起きてしまいそうだったけど。

30日(金)まで新百合ヶ丘駅北口から徒歩3分。17:30から上映。その他の映画館での上映情報はこちら

塀の中のジュリアス・シーザー(Cesare Deve Morire/Caesar Must Die)

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これはイギリスで封切られたときのポスターなので、

Caesar Must Die シーザー・マスト・ダイ

原題であるイタリア語では

Cesare Deve Morire チェザーレ・デヴェ・モリーレ

これをスペイン語にすると、

Cesar Debe Morir セザール・デベ・モリール

英語は全然違いますが、イタリア語とスペイン語はよく似ているでしょ?どちらもラテン語を親とするロマンス語なので。

昔、イタリア人の友人がメキシコ人と話すのを横で聞いていたら、どちらも自分の母語(イタリア語とスペイン語)で話していて、それでもなんとか通じているので、ビックリしたことがあります。実際、最近スペイン語を勉強しているから、テレビで時々耳にするイタリア語も、たま~に、わかったりしています。

さて、この映画。タヴィアーニ兄弟監督作品です。パードレ・パドローネとかサン・ロレンツォの夜とか、物語を作り、うねるように語るのがうまいタヴィアーニ兄弟がドキュメンタリーを撮るというのは、ちょっと意外かもしれません。でも、ドキュメンタリーといっても、実在の人物を「追いかける」タイプのドキュメンタリーではないのです。

日本語の題はネタばらしになっていますが、「塀の中」の皆さんがシェイクスピアの(イタリア語訳だけどね)「ジュリアス・シーザー」を上演する顛末を撮っている。

ローマ近郊の刑務所では、受刑者のリハビリの一環として、毎年1本、芝居を一般の観客の前で上演しています。その稽古を見たタヴィアーニ兄弟が、ぜひ映画にしたいと自治体に(たぶん)持ちかけ、実現した作品なのだとか。

監督たちはジュリアス・シーザーという、裏切りと殺人の芝居を選びました。それを「殺人で終身刑」などという方々が演じる。

実際の舞台は最後に少し出てくるだけで、そこの部分、つまり虚構の部分だけがカラー。その前のオーディションと稽古の部分は全部、モノクロです。これからもわかるように、監督たちは完全に自分たちの映画の世界を構築しているんですね。各カットもすんごくスタイリッシュだったりする。しかも、そもそも稽古の場面にしても、語られるのはシェイクスピアの言葉なのです。

つまり、実人生において裏切ったこと、裏切られたことがあり、人を殺したことがあり、騙し、騙されたことがある人たちが、シェイクスピアの言葉を口にし、監督たちの作る画面の中で動く。この作品自体が、受刑者たちに「自分を演じる舞台」を提供しているという案配なのです。

そのことがよくわかるのは、というか、実はイタリア人以外にはピンと来ないのだけれど、監督たちは、役者たちに、それぞれの出身地の方言、仲間内で使っている言葉、なまり、そういうものでセリフを言わせたのだそうです。生の自分、お前の臍の奥にあるものを出せ!ということですよね。

そもそも組織犯罪のメンバーが多いわけで、自分の内面を検証するという経験はなかったかもしれない。芝居の稽古を重ねる中で、「ブルータス、お前もか!」という台詞を言うことで初めて、自分の中に溜まった思いが外へほとばしり出る。そういう意味で、この刑務所では、芝居をリハビリに使っているのでしょう。芝居という枠組みがあって初めて、その中に自分を見ることができる、というかね。

お勧めです。DVDも出ていますから、お正月休みに退屈したら、借りて、ぜひ。

今月のジャックアンドベティ:マルタのことづけ

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先月ご紹介した横浜の名画座ジャックアンドベティ。今月はメキシコ映画、「マルタのことづけ」を鑑賞してきました。(東京ではシネスイッチ銀座で21日まで上映中)

日本語の題をつけるのに苦労したであろうとお察しいたします。原題は Los insolitos peces gato で、そのまま訳すと「とても珍しい猫魚[=ナマズという意味]たち」です。なんだかわからないでしょ?映画を見るとわかります。ナマズは出てこない!

このキッチュな原題のつけ方から、すでに想像できるかもしれませんが、監督は若手の(1980年代生まれ)女性です。初監督作品。

孤独な若い女性が不治の病を背負った中年女性とその4人の子供たちと出会い・・なんて言うと、なんだかお涙ちょうだいの教育委員会推薦映画のように聞こえるではありませんか。

あるでしょ。「感動」とか「泣ける」とか、宣伝される映画。みんないい人、いい子たちで、病人のはずの人の肌はピッカピッカで、善人が死ぬ「泣ける場面」があって、映画館から出てきた若い子たちにマイクを向けると、「感動しましたあ~」なんてね。ゲゲゲ~。書いただけで吐き気がしてきた。

なぜそのようなゴミ映画を作ってしまうかというと、「感動映画」を作るためのネタとして死を利用するだけだからなんだよ。人気タレントを主役か脇役に据えれば、それだけである程度の観客動員数が計算できる。あとはだれかが死ぬことにして、「感動」のスタンプを貼れば、一丁上がりってなもんです。

この映画は全然違う。「死」が柱になった作品です。Memento mori(メメント・モリ。いつかは死ぬことを忘れるな)とはいうものの、常に死を想定して日常を送る人はあまりいない。死を身近に感じつつ送る日常って、どんなものなのだろう。自分の死が迫ったら、何をしたくなるのだろう。

主人公の孤独な女性はスーパーの実演販売で生計を立て、生きる喜びを実感しない生活を送っている。部屋を飾る気もなく、美味しいものを食べたいとも思わず、暮らしを快適なものにする意欲もない。虫垂炎で入院しても、見舞客はいない。

隣のベッドでは、やせ細った中年女性の周りで、10歳から20歳ぐらいの4人の子供たちがドタバタと動き回り、母の世話を焼いたり(オマルを尻の下に入れたりね)、母に甘えたり、大声で言い合いをしたり、病室でそれはないだろう~、と呆れるような大騒ぎをしている。

子供たちが帰り(1人はベッドの下に隠れているけど)、静かになったところで、主人公がカーテンを開ける。中年女性がたずねる。

¿Como te llamas? 名前はなんていうの?(コモ・テ・ジャマス?くだけた言い方です。初対面でも、かしこまらなくてよさそうな相手には、こう言う)
Claudia. クラウディア
Yo, Martha. 私はマルタ

そこから始まる新しい関係。クラウディアとマルタの関係を軸に、4人の子供たちそれぞれとクラウディアの間にも関係が生まれ、一人ひとりが抱える問題があり、母の世話も大変だし、6人で食卓を囲み、その前には調理もあり、みんなでビーチに出かけ。

ガチャガチャと忙しく物語は進むのですが、その忙しい時間の流れをオノでたたっ斬るかのように、ことあるごとに「死」が不気味な顔を見せる。フワッと膨らんだ楽しさが、いつもプシュッとしぼんでしまう。そんな繰り返しの中で、死は着実に近づいてくるのです。

とまあ、こんな映画ですが、「猫魚」をはじめ、かわゆいセンス満載で、ファッションもオシャレだったりして、重いテーマだけれど、抵抗感なく受け入れられると思います。

それと、メキシコ的と言えないこともない。メキシコでは毎年11月初めにEl Dia de Los Muertos(死者の日)という大きなお祭りがあり、民芸作品としての仮面作り(水木しげるの「幸福になるメキシコ:妖怪楽園案内:水木しげるの大冒険」に、仮面の写真がいっぱい)でも、骸骨が重要なテーマになっています。メキシコでは「日常の中の死」という概念が伝統的に受け継がれているようです。

あ、そうそう。次女役を演じているおデブちゃん役者に注目ですよ。最初に登場したときから、なんとなく、普通の役者とは違う感じ。なんだか身ごなしとか眼差しとかが変なんですよ。独特の違和感と存在感がある。映画を見終わって、パンフレットを読んで、理由がわかりました。お楽しみに。

 

生きることは息苦しいこと

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イランのアスガル・ファルハーディー(ファハルディ?)監督。生きることは息苦しいことなのだ!と力強く宣言してくれてしまう彼の作品。

現実逃避のために映画を観たいときは、絶対に観ちゃだめだよ。あ~なんかスカッとしたいね~と、実人生からの逃避をお求めの方は、シネコンでアニメかスーパーヒーローものか、オシャレな恋愛映画を観るべし。

「別離」2011年製作。日本公開2012年4月。

宗教や文化が違っても、世界中で人は同じような悩みを抱え、同じように他人を疑い、同じように良心の呵責にさいなまれるということを、しみじみと実感させられる映画です。

お国はイランなんだけど、十代の娘がいる夫婦の間で、のっけから離婚話よ。英語教師の妻シミンが一人娘の教育のために外国への移住を主張。夫ナデルは高齢で認知症の父の介護があるから無理。で、離婚の手続きが進行中で、とりあえず妻と娘は実家へ。

ナデル一人では父の介護ができないから、急遽、30歳ぐらいの既婚女性ラジエーを雇うのだけれど、ここで観客はすでに(あちゃー、これ、絶対まずいって!)と予感します。だって、介護の経験は皆無のようで、夫が失業中でしかたなく仕事をしているわけだし、だいいち、イスラム教の戒律が厳しいイランで、男所帯に若い女性って、どうなの?しかも、小さい女の子がいて、お母さんの周りをウロチョロして、さらにイライラ感が募ります(脚本がうまい!)。

このような不安と焦燥が喉もとまでこみ上げる状態で、ダムが決壊するかのように事件が勃発します。ラジエーがお父さんをベッドに縛って外出していたことを知ったナデルが激怒し、ラジエーをなじるうちに、ラジエーは階段を転げ落ちてしまう。実は彼女は妊娠しており、流産してしまい・・。

ここから先、ナデルはラジエーを突き飛ばしたのか?ラジエーが妊娠していたことを知っていたのか?などの謎に加え、ラジエーの夫が示談金を要求するという話も絡み、けっこう、観客の頭を絞らせる映画であります。

最終的には、ある大きな謎がハッとするほど美しい形で解かれ、それは監督から観客の心への贈り物かもしれません。でも、結論としては、登場人物はだれ一人として、映画の始まり以上に幸せにはならない。それはもう、しょうがないの。人生は苦しくて当たり前なのであります。うわあああ。

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「ある過去の行方」2013年製作。日本公開2014年4月

まだ地方で上映中のところもあるから、お近くの映画館をチェックしてね。

こちらは舞台がフランスで、台詞もほとんどはフランス語です。ただ、主人公というか、ある状況に投げ込まれてしまい、ある種、狂言回し的な役割をせざるをえなくなった男がイラン人なので、少しペルシア語も混じります。

これは前作よりもさらに人間関係が複雑なので、頭をしっかりさせていないと、わからなくなるよ。

最初のシーンが空港で、到着したイラン人の男と迎えるフランス人の女がガラス越しに身振り手振りで・・という様子から、「ははあ、人間どうし、わかり合えないものですね、という映画なんだなあ」と察知できるようになっています。

今回も、男と女の関係(元夫婦だが、正式に離婚をしていなかった)、男がやって来た理由(離婚手続きのため)、人間関係(女には娘が2人いるが、男の子どもではない)などが少しずつわかってきて、わかるたびに、観ている方は「ありゃま、そうだったの」となります。そういうことなので、頭がしっかりしていないと、わからなくなっちゃう。

そして、実は今、大変な状況であることが明らかになる。女が男と別れて結婚しようとしている相手の妻が、自殺未遂で植物状態なのだ。その状況の中で、イラン人の男が池に投げ込まれた石のように波紋を広げ、状況の真相が明らかにされてゆく。

今回も、最終的には、だれも幸せになりません。ええ~ん。ひたすら息苦しいです。特に、監督は全部を教えてくれるわけではないので。「服にシミをつけたのはだれか?」とかね。(相手の男の職業がクリーニング屋さんで、服にシミをつけられたという客からのクレームが重要なポイントになっているのであります。)

でも、息苦しいけれど、最後には、だれもが少なくとも自分に対しては、正直になるの。これが大切。自分に対してだけは、嘘を言っちゃいけない。どんな苦労や孤独が待ち受けているとしてもね。

山猫[最高画質デジタルリマスター版]

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ヴィスコンティの「山猫」と言えば、だれでも少なくともタイトルを耳にしたことはあるというぐらいの映画史上に燦然と輝く名作です。でも、なにせ3時間という長尺ですし、1963年の作品で、若い人は興味がないでしょうし、若くない人は「若い頃に見たけど、ぜんぜん覚えてない。途中で寝たかも・・」なんてね。

しかし!それではイカン!そのまま放置していては、一生の損です。なにしろ、数年前にマーティン・スコースィージ総指揮のもと、12,000時間かけてデジタルリマスター版を作成したんだから。夢中になると我を忘れる(どうやらそうらしい)スコースィージのことですから、素晴らしい画質のリマスター版になりました。

うちにはブルーレイ再生可能なシステムがないので、シネフィルイマジカというチャンネルで観たのですが、あっと息を呑む美しさ。

隅々まで鮮明だから、ヴィスコンティお得意のインテリア、調度品一つひとつの細部、ドレスや椅子の布張りやカーテンのテクスチャ、石畳の道を横切る猫の毛並み、会話する役者の横で地面の穴掘りをする犬の筋肉の躍動、すべてが一度に視界に入ってきます。

これはもう旅行ですね。その意味で、話や俳優にいまひとつ興味が持てない(なんて言うと、映画好きの方は激怒するでしょうが)方にも、おすすめします。ヴィスコンティが創造した世界を旅行する。その気持ちで、次々に現れる景色をご堪能ください。

おまけというか、バート・ランカスターの入浴シーンも見られるよ。この作品の撮影時点にすでに50歳近かったはずですが(なにせヴィスコンティなので、俳優に有無を言わせず、脱がせたのではないかと)、腹筋がすばらしい。ミケランジェロが見たら、中高年男性を描くためのモデルにしたかもしれん。

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