書籍・雑誌

読書会

2年前から地元でいろいろ市民活動をしている女性たちの読書会に参加しています。

月1回、メンバーは昨年増えて6人になりました。子ども5人(!)を育てたという方もおられれば、私のような一人モンもいるし、フェミニズム、高齢者支援と活動分野は多彩で、本といっても小説が好きな人もいれば、評論が好きな人もいます。(ただし、「安倍嫌い」は全員一致だぞ)

だから、読書会のお題も、ある月は小熊英二時評集「私たちはどこへ行こうとしているのか」、翌月は申京淑の「母をお願い」、次は私の大好きな高野秀行の「西南シルクロードは密林に消える」という具合で、多岐にわたります。

自分が知らなかった作品や、たとえだれかに勧められても、「ふ~ん」ぐらいで、結局は読まないような本を読めるので、とってもありがたい場になっています。

特に、ここのところ電子ブックを使うことに慣れてきて、谷崎16作品とか太宰271作品とかを200円ぐらいでダウンロードして、まとめ読みしているので、なんだかあまりに「純文学」してしまい、読書傾向が偏り気味です。(ちなみに、チェーホフ28作品はキツかった。戯曲が重すぎるのは言うまでもありませんが、短編もボディーブローのようにきいてきて、疲れる。でも、カシタンカという犬の話があって、これがとってもカワイイ。本に向かって、思わず、いい子、いい子、と言ってしまいそう)

さて、その読書会の次回のお題が、斎藤美奈子の新作。「文庫解説ワンダーランド」(岩波新書)

ほら、ハードカバーで出版された本が売れると、文庫になるでしょ。で、必ず「解説」というのがついている。それが著者の紹介であったり、作品の背景の説明であったりすれば、意義がわかるのだけれど、なんだかよくわけのわからん解説があるじゃないですか。著者と解説者の交遊の思い出話だったりして。芸のある文芸評論家として知られる斎藤さんが、その文庫解説をバッサリ切る!

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まだ読み始めたばかりですが、斎藤さん絶好調!飛ばす飛ばす。イケイケドンドンです。

読者にとり全く役に立たない、無意味な、あるいは的はずれな解説を批判するだけでなく、良い解説であれば、「本文に負けない良質なエッセイ」で、「一粒で二度おいしい文庫」と賛辞を贈ります。

いやー、ホントに芸のある人ですよ。

隣に置いたのは戴き物の赤坂雪華堂のどら焼き。「開運菓子」という七福どら焼き(7種類の甘納豆が入っている)を食べながら「ワンダーランド」という、これまたなんとなく「開運風」の本を読むという、幸せな時間を過ごそうかなという目論見なのであった。

続・移動文学:彼岸過迄

つゆのあとさきで東京市電地図を見ていたら、おやおや、こういうことだったのか、と気づいたことがあったのだ。

今度は、これまた青空文庫から無料でダウンロードした夏目漱石の「彼岸過迄」です。

作品の題からして、「彼岸過ぎまでぐらい書こうかな」ということで付けたというのだから、ちょっと風変わりな小説で、主人公はいないといっていいでしょう。ただ、全体の狂言回し役として敬太郎という青年が登場します。この人が職探しというか自分探しというか、それに奔走するうちに、いろいろな人物、その人たちをめぐる人生模様に遭遇する。そういう話。

この敬太郎青年が友人の親戚の男性に職を紹介してもらおうとしたら、ある男のある夜の行動を見張るという、腕試しのようなことを頼まれてしまいます。ちょうど何か冒険してみたいと思っていた敬太郎は、それほど変なこととも思わず、それを引き受ける。

その男は小川町の停留所で市電を降りるので、そこから尾行を開始することになっていた。そこで、敬太郎は早めに行って、小川町停留所の付近をぶらぶらしていたのですが、そのうち、実は停留所がそこだけではなく、少し離れたところに同じ名前でもう一カ所あることに気づくのです。

さて、ここのところで、漱石は敬太郎が考えたこととして、その2つの停留所の位置関係と、どうして2つになっているのか、その理由を描写するのですが、残念ながら、これがわかりにくい。

漱石は永井荷風のような「移動人間」ではなかったのでしょうね。漱石には当然、描写力はあるのですから、頭の中で市電の路線図をありありと思い浮かべることができたなら、わかりやすく書くことはできたはず。荷風なら路線の方向などをもっとうまく説明できたかも。

とにかく、そんなわけで、なんとなくハッキリしなかった。それが今回、明治時代の市電路線図を見て、ようやく2つの停留所の位置関係がわかりました。これです。

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ははあ、という感じでしょ?ピンクの路線の小川町とグリーンの路線の小川町。う~ん。たしかに、これは説明しにくいかも。東京の住民で、よく市電に乗る人なら、わかっていたでしょうけどね。

 

つゆのあとさき:GoogleマップでGO

永井荷風の作品の中では「つゆのあとさき」という作品が好きです。昭和初期の東京が舞台。君江という性に奔放な若いカフェの女給(言っとくけど、ウェイトレスじゃないよ。一種の風俗営業?)を狂言回し役に据え、軽佻浮薄を体現する男たちを、荷風がものすご~く意地悪に活写します。

君江さんは金にも男にも未練がなくて、いい気持ちを味わうのが大事というパンクな女の子だし、その愛人である文学者気取りの下卑た清岡という男の妻の鶴子さんは、清岡に愛想尽かしをして外国に行ってしまうし、ひょっとして荷風ってフェミニストか?という雰囲気。

でも、なんといっても、私がこの作品を好きな最大の理由は、え~、なんと形容したらいいのかわかりませんが、これが「移動文学」だというところでして。

全編にわたり、登場人物がどこからどこへ、どのような交通手段で移動したかが、事細かく描写されます。これが楽しい!Googleマップで追いかけてみると・・

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君江さんは小説の第1日目に、こんな風に移動します。

左上の市ヶ谷本村町の自宅(間借りをしている)から市ヶ谷見附まで歩き、そこから市電(後の都電。路面電車)に乗り、日比谷で降り、占いに相談に行く。市電の路線はこれ。

Tokyo_shiden_meiji

占いの後は松屋呉服店(当時は呉服店だったんだね)から二、三軒京橋寄りのドンフワンという勤め先のカフェへ。

帰りは客の一人と女給仲間一人の三人で、日比谷から新宿行きの市電に乗ります。赤電車(終電)に間に合った。

Shiden_yotsuyamitsuke

女給仲間と別れた後、客と四谷見附で市電を降り、本村町の自宅に寄ってから、その矢田という男と円タクで神楽坂の毘沙門の祠(善国寺)あたりの待合(芸妓遊びや密会に使われた場所)に。

1日目だけでこんな調子で、とにかく移動はすべて書くという案配です。

君江さんだけでなく、他の登場人物についても同様。現在だけでなく、過去の出来事についても、市電の乗り換えまで書いてあるという念の入れ用です。地図や交通、鉄道、電車などが好きな人にはうれしい作品ですよ。

中国語始めました

6月ぐらいから中国語を学習しています。中国は高齢になってからの旅行先としてとってあったので、中国語はいずれはやらねばと覚悟していました。

で、いよいよ!満を持して!・・なわけですが、続くかどうか、全く自信なし。1カ月で挫折かもなあ~ぐらいの自信のなさでした。でも、なんとか3カ月続き、CD付きのテキストも揃え、

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だいぶ投資もしたので、もう後へは引けない状況に。右上の電子ブックリーダーはNHKラジオの「まいにち中国語」のテキスト。スペイン語学習と同じように、ウォークマンで毎日ラジオ放送を聞いて、ジムで運動中もずっと中国語漬け。

発音が死にそうに難しい!でも、自分が発音するのは、まだいいのよ。口の開け方と舌の位置の図を見て、そのとおりにすれば、なんとかできる。舌がコマ結びになっちゃいそうなんだけどさ。

難しいのは聞き取り。日本語にない音で似た音2つを聞き分けるのは、もう、無理ムリ。絶対無理。今のところは文脈から想像するしかない。そのうち、何年かして、聞き分けられるようになれば、幸甚に存じます。なんて言っているうちに、耳が遠くなったりして。

そうは言っても、日本人は圧倒的に有利よ。もともと漢字は中国からもらったわけで、使い方と発音は新たに学ぶとしても、意味については「たぶんこれ?」という見当がつく。

学習 xuéxí 学ぶ
一路平安 yīlù píng'ān 道中ご無事で

本土で使う簡体字はかなり違うけど。(台湾と香港は繁体字です)

开车→開車 kāichē 車を運転する

それに、これはもう、大感激してしまったのですが、1つの字の読み方は原則として(たまに複数ある)1通りしかないのです。これはありがたい。例えば、

先生 xiānshēng 氏(~さん)

という読み方を覚えると、「学生」は上の「学習」の xué と「先生」の shēng をつなげて、xuéshēng だなとわかるわけ。そもそも、同じ字に音読みと訓読みがあるという日本語が変なんだけどさ。

さらに、圧倒的にありがたいことがひとつ。学習者の人数が多い!それも、ある程度の期間継続して学んでいる人たちの中に、学習法を自分なりに工夫している人がいるのです。だから、発音が難しいとか、文法をなかなか記憶できないとか、困ったときに、Google で検索をかけると、どこかでだれかが同じことで悩んだ経験があって、自分で考案した取り組み方を紹介してくれています。YouTube も役に立つよ。中国人の先生が口の形を見せてくれるから。

こんなわけで、なんとか続けて行けそうです。スペイン語は仕事につなげることを考えているので、読む方に重点を置いていますが、中国語はもうできる人が山ほどいて、仕事にするなんていうことは夢にも思っていないので、ひたすら会話です。

ああ~でも、中国語ばかりやっているわけにもいかないのですが。

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月一度の読書会のために読まねばならない本。

それに、ガルシア・マルケスの「コレラの時代の愛」。スペイン語が大変ということもありますが、この作品自体の情緒の重みがすごくて、最初のページから精神的に動揺してしまってさあ。

相変わらずスペイン語の接続法が今ひとつだし、中国語では舌がコマ結びになりそうだし。だいいち、仕事は英語だしねえ。脳がどこまで耐えられるか。

予告された殺人の記録・読了!

読書会で読むことになったとご報告した「予告された殺人の記録」、読了です。

いやいやいやいや・・・って、何回言っても言い足りないほど、いや~、ガルシア・マルケスはすごい。

中編なのに、大長編を読み終わったかのような満足感を覚えているところでございます。

主な登場人物だけでなく、脇役の人たちも含め、ご近所の皆さんほとんどが、殺人が行われることを知っている。なぜか?殺人者たちが公言しているからです。なぜ公言するのか。だれかに止めてほしいからなんだよ!

そもそも、中南米に強い男系家族主義に従い、処女ではなかったという理由で実家に突き返された妹の名誉を守るのは、男の兄弟の義務だ!ってことで、そこから殺すという塩梅になったわけ。だから、早い話、メンツを守ることができれば、サンティアゴ・ナサールを殺す必要はなかったのだ。

さらに、そもそも、ナサールがその娘の相手だったのか?というのが大いに疑問で、ご近所の皆さんも、語り手である彼の友人も、「ありえねえ~」というご意見なのである。

だから、だれか町で存在感のある大人が間に入ってくれれば、なんとかなった。

ところが、たまたま司教様が船でやって来る、まさにその日に当たっており、町中が宗教的熱狂に包まれ、浮き足立っている。ドンドカドンドカ、楽隊が演奏する。その前日に結婚式があり、若者たちはみんな、飲んじゃってる。犬は吠える。花火があがる。普段の町の骨組みが、やや緩んでしまっていた。

それに、「ありえねえ~」からこそ、双子は「殺す殺す」って言ってるが、本気じゃないだろうと思う人もいるし、ナサール自身が、直前にそのことを伝えられても、「ええっ?」と呆然としてしまい、全力疾走で隣町まで逃げるなんてことをしなかった。

最後の数ページの描写はすごいよ。ゴゴゴゴ~と地響きをたて、殺人へとなだれ込んでゆく!スピード感がすごい!

とにかくもう、いろいろな思い違いが重なり(読めばわかるよ)、ナサール自身をはじめ、登場人物全員の性格や立場や人間関係など、一人ひとり、一つひとつでは小さい影響力。それが全部、ベクトルとして合計されて、大きな影響力になり、殺人という悲劇が起きてしまう。

今の日本の政治社会状況とかを考えると、背筋が寒くなります。「まさか、そんなことにはならないでしょ?」なんて言っている、そこのあなた。この小説を読んで、読み終わってから、もう一度、自民党の改憲案を読んでみてよ。

とまあ、遠い日本の政治にまで思いをはしらせてしまうわけですが、ナサールがアラブ系であることとか、花嫁の母に象徴される、男性優位社会での女性の生き延び方とか、多面的な含蓄にあふれる作品です。

おまけ:「百年の孤独」を読んだ方ならニヤリとしてしまう設定も出てきて、楽しいよ。

予告された殺人の記録

次にスペイン語で読む作品が決まりました。私が決めたのではなく、月に一度の読書会で、「そのままさんがスペイン語勉強中だから、一度、私たちはスペイン語から訳されたものを読んで、そのままさんはスペイン語で読んで、比べてみましょうよ」というご意見が出て、みなさんが決めてくださったのです。応援されてるんだか、尻を叩かれてるんだか・・。ハッハッハッ!

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ガルシア・マルケスの Crónica de una muerte anunciada。日本語訳のタイトルは「予告された殺人の記録」ですが、スペイン語のタイトルが意味するのは、「予告された死に関する記事」です。

現実に起きた殺人事件をガルシア・マルケスが丹念に取材し、それを下敷きに創作した中編で、タイトル通り、記者が書くコラムのように見えないこともない体裁を取っています。

彼はキャリアの最初を新聞記者として始めたとのことなので、取材もお得意だったのかな?

コロンビアのスクレという地方で起きた事件なのですが、新婚の花嫁が処女ではなかったという理由で実家に送り返され、一族の恥と激怒した花嫁の兄弟2人が、妹の処女を奪った男を殺してしまったという、「事実は小説より奇なり」を地で行くような話。

このように実際の事件自体が「マルケス的」なのですが、とは言え、登場人物の性格などは100%創作で、例によって例のごとくの「濃い」人たちが次々と登場し、「だれもが知っていたのに、だれにも止められなかった」悲劇が展開します。

冒頭文で読者に軽くパンチを食らわせるところも、「百年の孤独」と同じ。

El día en que lo iban a matar, Santiago Nasar se levantó a las 5.30 de la mañana para esperar el buque en que llegaba el obispo.

彼らに殺されようとするその日、サンティアゴ・ナサールは司教が乗る船を出迎えるために、朝5時半に起床した。

こんなことが書いてあったら、「おっ。殺されるんだって。どんな風に?」と思うじゃないですか。うまいよなあ。

いかにも連載特集記事のような書き方なので、一文ずつが短くて(「百年の孤独」の1ページ1文なんてのは皆無!)ちっとも難しい文がなく、今のところスラスラ読めています。

ちと興味深い点がひとつ。殺されてしまうこの方の父方の家系はアラブ系なんですね。「父子の間ではアラビア語で話していた」と。お父さんの名前は Ibrahim。スペイン語読みだから、イブラヒムではなくてイブライムになるのかな。コロンビアには19世紀から20世紀にかけてシリア、レバノン、パレスチナなどから移民した人たちがいるそうです。

スペイン語は論文の方が簡単

「蜘蛛女のキス」の注は、いわゆる「堅い」精神分析学の諸説の説明で、それじゃ、ずいぶん難しかっただろうと思うかもしれませんが、これが違うんですよ。逆なの。

英語は長い歴史の中で、いろいろな言語の影響を受けており、ラテン語起源の言葉もかなり残っています。ものすご~く大雑把な目安としては、長くて難しい感じの単語(administration とか consequence とか)、学者が使うような単語は、ラテン語起源が多い。そして、スペイン語はラテン語の影響がかなり残っている言語です。

Engspa151230

そんなわけで、蜘蛛女のキスの中で、モリーナとバレンティンが語り合う、つまり口語文の部分では、英語の知識はほとんど役に立ちませんが、注は英語の知識だけでもかなり理解できてしまいます。

たとえばこんな感じ。

El investigador ingles D. J. West considera que son tres las teorias principales sobre el origen fisico de la homosexualidad, y refuta a las tres.

スペイン語を全く知らなくても、英語ができる人なら、なんとなくわかるでしょ?

investigador → investigator
ingles → English
considera → considers
teorias → theories
principales → principals
origen → origin
fisico → physical
homosexualidad → homosexuality
refuta → refute

「英国人研究者D・J・ウェストは同性愛の身体的原因に関する主な3つの理論について考察し、それらに反駁を加えている。」

こんな風で、あてずっぽうでも読めてしまうものだから、ついつい知らない単語でも、辞書を引かずに済ませようとする、という弊害がありまして。それではスペイン語の勉強にならないから、面倒でも辞書を引かねばならない!と、気合を入れた末の読了でありました。

今年は「百年の孤独」、「蜘蛛女のキス」と、脳みそが爆発しそうになりつつ、もんのすごく頑張って、どちらも読了!大満足の年末だよ。

蜘蛛女のキス、読了!

読了!今回は速かったね。

Fin151222

ああ、しかし!今回は大失敗をしてしまいました。

この第16章の後に NOTAS (注)の部分があるのですが、これは著者注なんですね。で、それが45ページもある!

本文を読んでいる間に注があるのは気づいていた。デジタル版では*になっていて、これをプチッとタッチすれば、すぐに注に飛べるのです。

ところが、これを著者注ではなくて編者注か何かだと勝手に思い込んでいたのです。これが全くの思い違い。この注自体が作品の一部だったのでした。

注の内容は1つを除いて(モリーナが語る映画の1つ、ナチスのプロパガンダ映画が尻切れトンボになってしまったので、その内容を映画会社の資料で紹介する・・というものですが、たぶんこれも作者の創作?)、同性愛に関する精神分析学・心理学の諸説の紹介なのです。

フロイトをはじめとする数々の研究者の説が紹介されるのですが、ここでまた作者の仕掛けがあって、どうも全てが本物とは思えない。論文などの科学的資料を引用するときは必ず、題名・著者・出版年・出版社を明記しなければならないのに、題名と著者だけで、どうも信用できないわけでして。

とまあ、この読み方の失敗に気づいたのですが、さすがに全部を読みなおす気にはならず、とりあえず注が挿入されている箇所の少し前を読んでから注を読む、というようにしてみました。

そうしたら、最初の注は確かに本文の内容と合った内容なのですが、それ以降は内容に即していないのです。「なんでここにこの注が???」と頭をひねることになる。でも、いくらひねってもわからないので、わからないまま、また本文に戻るわけ。

考えてみると、それが作者のねらいなのではないかと。モリーナとバレンティンの間で(1つ、モリーナと刑務所長との話の間に入る注がありますが)話が煮詰まるとか、気持ちが高ぶるとか、映画だったら、無言で見つめ合う、睨み合う、怒ってソッポを向く、そういう場面に注が入るのです。

つまり、胸が詰まる感じになったところで注を入れて、「フロイトはその著書の中で、このような説を展開している」なんていう、無味乾燥な文章を長々と読ませて、読者の頭を冷やすというかね。そういう役割を果たしているような気がします。

注は同性愛についていかに誤った論争が長年繰り広げられてきたかという内容で、その内容自体がプイグにとり意味があったことも確かですけどね。作品執筆時点でさえ、そのような状態だったのに、その時点からさらに状況が変化した今となっては、陳腐としか言いようがない諸説なのですが。

ちなみに、この注について、アメリカのアマゾンのコメント欄で面白いことを書いている人がいました。「モリーナとバレンティンの間で性的欲求が高まったときに注を入れて、ムラムラっとした気分を冷ましているんだ」だって!

まあ、バレンティンの方は100%の異性愛者だし、モリーナの方もバレンティンに惹かれてはまずい事情があるので(あ、ちょっとネタばれしちゃった)、性的欲求が高まったら、なんとか水をかけて冷まさなければいけないんだけど。ひょっとして、コメント氏の説は当たっているかも?

とにかくもう、仕掛けがいっぱいなので、これから読もうと思っている方は、気をつけてくださいね。スペイン語自体は百年の孤独よりもずっと簡単だったけど、結局は、今回も疲れたよ~。

気持ちも疲れた。悲恋でねえ。涙が出ました。自分で編んだ巣に自らがとらわれ、逃げ場がない蜘蛛女。そういう人生を歩む人って、少なくないでしょ。

チェ!

蜘蛛女のキスを読んでいると、よく出てくるのがこの言葉。

¡Che, cómo comés de rápido!

最初の Che(チェ)。これは以前に紹介したリオプラテンセ方言など、アルゼンチンで使われるスペイン語独特の言い方で、「おい」とか「ちょっと」とか「やあ」とか、そんな親しい人どうしで使う呼びかけです。

この文章では、下痢に苦しんでいた男が回復して、空腹なものだから、飯をかっこんでいるのを見て、相方の男が「ちょっと!そんなに速く食べて!」と、たしなめているところ。

この「チェ!」という言葉、どこかで聞いたような・・?

これ。

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チェ・ゲバラ。ゲバラの本名はエルネスト・ゲバラ(本当はもっと長かったような気がするけど)ですが、キューバで一緒に戦った仲間たちに、「チェ!」と呼びかけていたのでしょうね。それがキューバ人たちには、聞き慣れない言い回しだし、なんだか舌打ちみたいだし、ちょっと可笑しかったんじゃない?それで、このあだ名がついたみたいです。

ご本人はこんな方。1964年の国連での演説です。少し長いし、最初に紹介のアナウンスが入るので、20秒分だけ切り取りました。

ラプラタ川流域のスペイン語

蜘蛛女、快調に読み進んでおります。やはり「百年の・・」と比べると、驚きの簡単さ。辞書を引く回数が激減です。なにしろ、今のところ登場人物2人。ずっと会話文。

しかし、まあねえ、ということはですね。スペイン語学習初心者が「百年の・・」を読むことが、いかに無謀であったかという証でもありますわね。

ただ、蜘蛛女にも要注意点があったのだ。

その1つは方言。スペイン語は中南米でいろいろな方言に分かれていて、マヌエル・プイグの出身地であるアルゼンチンを含むラ・プラタ川(Rio de La Plata)流域にも独特の方言があります。アルゼンチンの人にとっては、それが標準語なんですけどね。

リオプラテンセ・スペイン語(español rioplatense)と呼ばれ、分布はこんな感じ。

Espaol_rioplatense_2

いろいろ本家スペイン語とは違うところがあるようですが、主だった違いとしては、まず、くだけた二人称単数主格(きみは、おまえは、あんたは)が、本家では tú(トゥ)ですが、リオプラテンセでは vos(ボス)です。

動詞の活用形も違うものがあります。例えば、querer(好き)とか perder(失う)などの動詞のくだけた二人称単数は quieres、pierdes と変化するのですが、リオプラテンセでは queres、perdes となります。

その他にもたくさんあるようで、小説の中でもこれから先、次々と出てくるのだろうなあ。ただ、このことを知ってしまえば見当がつくので、あまり困らないような気もします。

もう1つは接続法。接続法は話し手が主観や感情を交えて言いたいときに使われます。ですから、「百年の・・」のように、創作した歴史ものという側面も持つ小説では、出来事や事実を伝える文が多いから、接続法はあまり使わない。

でも、蜘蛛女では、今のところ、2人の会話だけなので、勢い、接続法が出てくる・・ような。登場人物の1人が映画の話をしている間は「物語」だから、直接法でいいんだけどね。

ただ、聞き手の男が途中で茶々を入れるから、しょっちゅう中断されるという、独特なリズムで話が進行するからね。そこが面白いんだけど。それに、話し手の男にしても、映画の内容を正確に覚えているわけではないし、覚えていることでさえ、常にきちんと順序だてて語れるわけでもない。「あ、これ、言い忘れていたけど」なんていうことになる。

つまり、プイグは読者に対し、作品中に入れ子になっている映画の中に没入することを許さないのであります。読者は常に、その映画に対しても、2人の男に対しても、批評的に関わってゆかざるをえないようになっている。独特の読書経験ですよ。

 

 

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